立本寺
(りゅうほんじ)
概要
具足山立本寺は、京都市上京区七本松通仁和寺街道上がる一番町にある、日蓮宗の古刹(本山)として知られ、日蓮宗八本山の1つである。京都の法華系本山十六ヶ寺の内、妙顕寺・妙覚寺・立本寺を三具足山といい、いずれも日蓮聖人の孫弟子にあたる日像聖人により開山される。
立本寺は、今回調査を始めた、「法華霊場記」によると、光厳院が仏法を世に広めるための土地を与え、堂を建てたのが四条櫛笥西頬地一町であることが記されていた。その後、天文5年(1536)、比叡山僧兵によって破却され、文禄3年(1594)、秀吉の命で京極今出川に移転される。その後、宝永5年(1708)の大火で焼失し現在地に移転、今に至る。
現在、本堂・祖師堂・鬼子母神堂・鐘楼・方丈・客殿などの建物は江戸時代を代表する寺院建設として京都市の指定有形文化財に指定され、境内には教法院・大輪院・正行院・光源院の塔頭が並んでいる。
歴史
日像が創建した妙顕寺を起源とする。日蓮の弟子で京都での布教に携わった日像は元亨元年(1321年)、御溝傍今小路(京都市上京区)に妙顕寺を創建。暦応4年(1341年)、四条櫛笥(下京区四条大宮付近)に寺地を移した。妙顕寺は嘉慶元年(1387年)山門(延暦寺)により破却されるが、明徳4年(1393年)、三条坊門堀川(二条城南東付近)に再興され、寺号を妙本寺と改めた。 応永20年(1413年)、妙本寺は再度山門により破却され、5世月明は丹波に難を逃れた。応永23年(1416年)、日実は妙顕寺の旧地(四条櫛笥)に寺を再興し、本応寺と号したが、一方、月明は五条大宮に妙本寺を再興(後に妙顕寺に復称)、本応寺と対立した。この本応寺が改称して立本寺と号した。なお、妙顕寺(妙本寺)と本応寺(立本寺)の分立については異説もあり、明徳4年(1393年)、日実が四条櫛笥の旧地に妙顕寺を再興し、本応寺(のち立本寺)と号したとする説もある。 立本寺は天文5年(1536年)天文法華の乱で他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難するが、天文11年(1542年)後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、法華宗寺院は京都へ戻ることとなった。立本寺は天文13年(1544年)新町三条に伽藍を再建した。その後文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の命により、寺町今出川(上京区立本寺前町)にふたたび移転した。後水尾法皇(第108代、1596-1680)の帰依篤く、法華経を聴聞し、一宇を建て「園林堂」の書を賜る。 宝永5年(1708年)宝永の大火で焼失後、現在の地に移転し、伽藍を再建し、平成20年で300年を迎えました。 妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三山で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。 現住は97世上田日瑞貫首(京都市妙円寺より晋山)。生師松ヶ崎法縁。
伽藍
宝永5年(1708年)の大火後、前地京極今出川で類焼を免れた祖師堂、開祖廟、鐘楼堂、本堂前井戸屋形、経蔵等を現在地へ移築した。焼け残った山門や祖師堂の大きな木材などを荷車で運ぶのに堀川にかる「一条もどり橋」は木造橋でもたないので石の橋にかけ替えたと言われています。
伽藍の他の建物は順次に再建された。本堂、刹堂(鬼子母神堂)、客殿、鐘楼、表門が京都市の有形文化財に指定されている。 本堂は寛保3年(1743年)、刹堂は文化8年(1811年)、客殿は享保13年(1728年)、表門は安永7年(1778年)の建立である。鐘楼は旧地から移されたもので江戸時代中期の建立。鬼子母神堂(刹堂)は天明3年(1783年)の焼失後に再建された。
文化財
重要文化財(国指定)
京都市指定有形文化財
京都市指定名勝庭園